Memo

久しぶりに面白い文章を見つけたので記載する。
2012年7月に青森周遊へ出かけて、八甲田の酸ヶ湯温泉で読んだ津軽新聞?第43461号より。弘前市出身の評論・批評家 三浦雅士さんの記念講演での一説を引用する。題目は「村上春樹津軽

 太宰治の「魚服記」の決定的な場面で「ばかくせえ」が出てくる。主人公スワの前で、東京から来た旧制高校生が滝つぼに落ちて死ぬ。スワは父に「おめえ、何しに生きでるば」「くたばった方あ、いいんだに」と言うと父が「そだべな、そだべな」と答えた。そのことに関してスワは”馬鹿くさくて馬鹿くさくて”後に滝つぼに身を投げて自殺する。


 人間は何で生きているのか分からない。生きているのは不条理で、でも耐えて生きている。太宰は、津軽人が人生の不条理さを真正面から受けて、耐え、しかも生き生きと生きていると感じていたことだろう。いつでも自分が死ぬということを考え続けてその不条理を書いていく。そういうことをよくよく考えさせる津軽の風土はドストエフスキートルストイを生み出したロシアの風土と近いものがあると太宰は思っていた。特にロシアの中で、一番津軽のことを考えさせるのがチェーホフだという。
 本来的に無意味な人間に意味をつけようとしても無理なのに、どうして意味を求めるかというと、それは人間が言葉と共に生きているからだ。言葉は他人の身にならなければ覚えられない。お母さんが「○○ちゃん、おなかすいたよね」と赤ちゃんの立場からしゃべる。つまり上から見る目線がなければ言葉は使えない。遠くから見て自分のことを他人のように見た上で、どうも自分には意味が無いと思う仕組みになっている。人生ばかくせえって思うのは言語に直面すれば誰でも思わなくちゃいけないことなんだ。
 そのことを一番正確に良く書いたのがチェーホフだ。サリンジャーを通してチェーホフの影響を受けたのがレイモンド・カーヴァー。それをしゃかりきになって翻訳したのが村上春樹だ。


 村上春樹の小説の面白いところは、基本的にあの世に行って帰ってくる話だということ。言葉のからくりと深くかかわっている。言葉そのものがあの世。だから、言葉を使うことは最初からあの世に関わってるってことなんだ。すると、どうしても死という問題を考えなきゃいけない。なぜなら死が言語そのものに内在しているからだ。そのことを村上春樹チェーホフを通して獲得したと思う。村上春樹津軽の本質を津軽にあると喝破した太宰治と同じところまで行こうとしている。
 津軽という風土はものすごく文学に合っている。文学が人間の本質だとすれば、津軽は人間の本質をあらわにさせる働きをする土地柄だ。村上春樹が素晴らしいと評価されている背景には、津軽的な要素を抱え込んでいるからだ。太宰は、チェーホフの一番そこには「ばかくせくて、ばかくせくて、生きてられないんだ」というのがいつでもあって、それが文学というものの秘密だと、非常に強く言いたかった。同じことが自分にも当てはまると思っていた。

 みなさんが青森、津軽という風土を一つの武器として根本的に生かしてくれたらうれしい。


素晴らしい講演だったと思う。人間とは、という概念を哲学的・文学的に解釈し、多面的に比喩を通じ、人々に浸透させる。上記に出てきた作家たちの文章は一通り読んだことがある。ぼくはアメリカの作家、スタインベックにも通ずるところがあると考えている。自然と人間との関わりを言葉で表現し、生きていることの意義深さ、逆に生きているのは「ばかくさくて」生きてられないという無意味さも表現している。

言葉って素晴らしい。

Memo.

露命[初回限定盤 CD+DVD]

露命[初回限定盤 CD+DVD]

IN MY SHOES

IN MY SHOES

THE PACKAGE

THE PACKAGE

machinic phylum

machinic phylum

Boom!(ブーン!)

Boom!(ブーン!)

POP DISASTER

POP DISASTER